行動

追っ手は来なかった。
少なくとも追っ手が来ていれば、アリアを抱えたユナンの足に追いつかないはずがない。
ユナンとアリアは難なく村を抜け、あの一本木の丘を通り、
アリアの屋敷へと向かっていた。
父が言った教会に行くにしても、まずはアリアの手当てが先決だった。
「……ユナン……」
途中で意識が戻ったのか、アリアがユナンに声をかける。
「アリア!?大丈夫か!?」
自身の休憩も兼ねて、一度木の陰にアリアを降ろす。
「……ユナン……ごめん……なさい……」
そう言うと深く咳き込んだ。
咳き込んだ口元から、月明かりに照らされ赤黒いものが流れ出る。
どうやら傷は、内臓にまで達しているようだった。
ユナンは慌ててアリアの傷口の具合を確かめる。
アリアの服は、胴の部分が大方黒く染まり、
尚も傷口からの出血は止まりそうになかった。
これでは、屋敷に着くまでアリアの体力が持つかどうか分からない。
そんなユナンの思考を読み取ったかのように、アリアは無理に微笑んでこう言った。
「大丈夫よユナン……吸血鬼はこのくらいじゃあ死なないわ……」
そんな無理に微笑むアリアを見て、ユナンは決意を固めた。
「アリア」
そう言ってアリアの肩を軽く抱き起こし、そしてはっきりとした口調で言った。
「アリア、俺の血を飲んでくれ」
その言葉にアリアは息を呑む。
「……ユナン……」
揺れる瞳でユナンを見つめる。
そして目を閉じ、微かにかぶりを振る。
「だめよ……今の私には、沢山の血が必要なの……あなたを殺してしまうわ……」
その言葉に、しかしユナンもかぶりを振り答えた。
「大丈夫だよ。力が必要なんだろ?俺は死なない。アリアは俺を殺したりしないから」
「ユナン……」
言ってお互いに暫く見つめ合っていた。
「アリア、君を失いたくないんだ」
その言葉に、アリアはまたそっと目を閉じた。
「ありがとう……ごめんなさい……でもやっぱり、だめなの」
閉じた瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「アリア……どうしてだい?どうしたら良いんだ……
  どうしたら君は俺を受け入れてくれる?」
月の光が雲で遮られ、少しの間、闇が広がる。
そして。
「ユナンっ!」
痛みも忘れてアリアは叫んだ。
ユナンは自分の手を口元へ持っていった。アリアの血で、赤く染まった自分の手を。
そう、ユナンはアリアの血を口にしたのだ。
「ユナン……何てこと……」
辛うじてそう言ったアリアの声はかすれていた。
「これで、仲間かな」
そう言ったユナンの顔は、場違いな悪戯っぽい笑みだった。
「これで、少々血を吸われたくらいじゃあ倒れないだろ?」
そう言って、にかっと、人好きのする笑顔で笑った。
アリアは何と言って良いのか分からず、
ただ水分でいっぱいになった瞳をユナンに向けるだけだった。
そしてふんわりと、やわらかい笑みを浮かべると、
その水分は大きな粒となって頬を伝い落ちた。
「ごめんなさい……そしてありがとう……」
アリアはそう言うと、ユナンの肩に腕を回した。
チクリ。
首の側面に痛みを感じた。
痛みと言っても思ったほどではなくて、
一度針で刺されるような痛みが少しあっただけだった。
そのまま時が流れた。
月を覆っていた雲が晴れ、また二人の姿は月明かりの元へ晒される。
今夜は、見事な満月だった。

「ホントにもう大丈夫?」
そう心配そうに聞いたのはユナンだった。
アリアの家への道すがら、今アリアはユナンの肩を借りて、
辛うじて自分の足で歩いていた。
「ええ、吸血鬼だもの。傷の治りは早いわ」
そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あなたの方こそ、何ともないの?」
そう聞き返すアリアに、ユナンはきょとんとした。
「だって……ほら、私の血を飲んじゃったから……」
少し言いにくそうにそう言うと、アリアは俯いた。
「あ〜、今の所何も感じないけど。あれって、飲むとどうなるんだ?」
今まで、アリアの血を飲む事は考えたが、
それによってもたらされる体の変化の事など、気にもしていなかった。
「どうなるのかしら?」
アリア当人のその言葉に、ユナンはいささか驚いた。
「え……どうなるのかしらって、アリアは知らないのか?」
当事者である。まさか知らないとは思ってもいない。
「それは……だって今まで人を仲間にした事なんてないし、
  少なくとも私が知る限り、私の一族はそんな事はしなかったわ」
「そっか……」
そう考えれば知らないのも当然である。
それと同時に、ユナンは少し安心した。
アリアは吸血鬼の血を吸った人間がどうなるのか知らなかった。
アリアは、悪い吸血鬼などではなかったのだ。
それから暫く二人は黙々と歩き続けた。
ふと。
「……エドワード、大丈夫かしら……」
そう漏らしたアリアの呟きが、微かに聞こえた。
そう言えば、あれから父はどうなったのだろうか。
あまり悪いようには考えたくなかったが、
ユナンとアリアにあそこまでした村人が、果たして父のあの行動を許すだろうか?
「父さんなら大丈夫だよ、きっと……」
あの時持っていた散弾銃は、恐らく護身用として家に置いていたものだろう。
子供の頃からあの銃を持った父親は見たことがなかったが、
まさかこんな事になろうとは……。
父親の身を案じながらも、自分に言い聞かせるためにも「大丈夫だ」と口に出す。
「そう言えば……エドワードから私達の話を聞いたの?」
思い出したようにアリアが問う。
「ああ、うん。少しだけ。昔父さんが俺と同じ事をしようとした事や、
  アリアが今何を糧にして生きているのか、
  アリアの一族が絶えてしてしまった理由もね」
「……私達一族が絶えた理由……?」
アリアの肩を抱くユナンの腕に、アリアの体が強張る感覚が伝わってきた。
「……生血を求めて仲間を殺していったって聞いたけど」
アリアの足が止まる。
「アリア?」
言ってアリアの顔を覗きこむユナン。
アリアの表情は硬かった。
「……エドワードが、そう言ったの?」
視線を虚空に止めたまま、アリアはそう尋ねた。
「そうだけど……」
そうなのだが、どうしたと言うのだろう?
「ユナン……あの木の丘が、私の両親のお墓だと言うのは話したわよね?」
アリアは静かに話し始める。月の夜に透き通る声が流れた。
「うん、聞いた」
「でも私はあの時、何故両親が亡くなったか言わなかったわ」
「……そうだね」
ユナンはアリアの言葉の続きを待つ。
「私の両親はね、ユナン、村の人達に殺されてしまったわ。あの丘で、磔にされて……」
ユナンは息をするのも忘れそうになった。
何だって?
「両親は当時の村長に理解と和解を求めに行ったの。
  だけど……聞き入れられなかったわ。そしてそのまま……」
アリアは一つ息をつき、言葉を続ける。
「父も母も、人を傷つける事を嫌っていた。だから抵抗はしなかったの。」
ユナンはまだ言葉が出ない。
「村の人には私の存在は隠してあったから、私は生き延びたわ」
少しの沈黙が落ちたあと、ユナンが重たい口を開いた。
「でもじゃあ、その他の君の一族は……」
アリアの両親は殺された?それも村の人間に。なら父さんの言った事は……
「人の血を吸う事をやめると一族で決めてから、
  皆森の獣や昆虫、草木の樹液で何とか生き永らえようとしたけれど、
  どれもやはり無理だったらしいの。皆飢えを凌ぐ事はできず、息絶えたわ」
獣……昆虫……
「アリアも……?」
自分でも嫌になるほど間の抜けた質問だった。
しかしアリアは平然とこう答えた。
「そうよ。さっきのあなたがくれた血が、私にとって初めての人の血だったの」
「アリア……」
「ユナン、あなたに一つお願いがあるの」
ユナンの方をじっと見てアリアが言う。
「なんだい?」
優しい瞳でそれに答えるユナン。
そしてアリアは続ける。
「私達吸血鬼にとって、人間の食べ物は灰の味しかしないわ。
  その代わり人の血は……良くも悪くも甘い蜜なのよ。
  味を知らなくても本能的に求めてしまう。その誘惑に、負けないで。お願い」
大方予想していたアリアのお願いに、ユナンはふっと笑い答えた。
「約束するよ。君のためだ」
アリアも、悲しそうではあるが、一応の笑みを浮かべた。
その見つめ合うユナンの視線が、ふと上空へ逸れた。
「……あれは……」
呟くユナンが見つめる空を、アリアも振り返って見上げた。
森の木々の向こうから、暗闇の中で何か赤い光が輝いていた。
「……火……?」
アリアは不確かながら、目を細めてそう言う。
見つめる先から、急に生暖かい風が吹きつけた。
「火って……」
ユナンも更に目を凝らす。
火……この先の森でも燃えているのだろうか?いやそれよりもこの先には……
「アリア、急ぐんだ!」
ユナンは一つの考えに達し、慌ててアリアの手を引き走り始める。
そこはもう、アーゼンフォード邸に間近い場所だった。
ユナンの考え――即ち、燃えているのはアリアの屋敷ではないのかという推測だった。


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