01.Inevitability





 いた。
 今日もいた。
 前から二番目の、一人席に彼が座っている。いつもどおり、バスに乗ると彼はその席に座る。バスの中は、
十一月の冷え切った外より熱いから、彼はすぐにマフラーと手袋をはずす。そして、鞄の中から文庫本を
出して、最寄りのバス停に着くまで、口を開くことなくそれを読み続けるのだ。今日、彼が読んでいる本は
『冬の痕』。確か、私と同じクラスの子が何人か読んでいた気がする。きっと、いま人気の本なんだろう。
 そこまで考えて、私はふーっと息を吐いた。
「よし、言うぞ……言うんだぞ……」
 緊張すると、少年のような口調になってしまうのは私のくせだ。私はぎゅっとしおりを握りしめた。
これは先日、彼がバスの中で落としたものだ。彼は気付かずに行ってしまったが、私だけは気付いた。
座席の下に、ポトリと落ちていたシンプルなしおり。英語で一行だけ言葉が書かれてあった。あいにく、
私は英語が苦手なもので、それが何を意味するか知らない。
 けれど、今はそんなことどうでもいい。あの彼に話しかけるチャンスができたのだ。何度か通学に
使うバスの中で、彼のことを見かけた。初めて見たときから、なぜか気になって、気付けば彼の存在が
私の中で大きくなっていた。私は、彼に淡い想いを抱いていた。
 あぁ、早くしなくちゃ。彼の降りるバス停に着いてしまう。早く、早く、話しかけなくてはいけない。
だけど、足が進まない。声が出ない。
「次はー、阿佐町ー、阿佐町ー、お降りの方は……」
 バス内にアナウンスの声が響く。もう次のバス停が、彼の降りるところだ。焦れば焦るほど、体が強張る。
私は、目を強くつぶった。こうなれば、自棄だ。声が裏返ったって、なんだっていい。声を、かけなくては!
「あのっ――」
 そう言った瞬間、バスが大きく揺れた。何人かの乗客が声を上げる。
 その揺れのせいで、私の前に背の高いサラリーマンがあらわれた。私の視界から彼が消え、私の声が彼に
聞こえたかどうかもわからなくなってしまった。
 これで、私が彼に話しかけるのは不可能になった。もう、バス停が見えている。終わった。せっかく、声を
かけようと思ったのに。なんというタイミングの悪さ。まるで、神様が諦めろと言っているみたい……。
「すみません」
 男の子の、声がした。声をかけられたのは、私の前に立ちはだかるサラリーマンのようだった。
「なにか」
「袖のボタンのところ、マフラーが引っ掛かってますよ。後ろの人のじゃないですか」
「あぁ、本当だ」
 サラリーマンが、くるりと振り返った。思わず、びくりと体をこわばらせる。
「すみません、貴女のマフラーが引っ掛かっていたみたいだ。ほどけてなかったら、いいんだけど」
 そういって、サラリーマンは丁寧に、引っ掛かっていた私のマフラーを自分の袖のボタンから外した。
マフラーは特にほどけてもいなかった。私は慌てて、「気にしないでください」といい、頭を下げた。
目線を上げると、一人席に座っていた学生が、私を見ていた。
 彼だった。
「良かったね」
 そういって、少しだけ彼は笑った。胸が高鳴った。唇が、かすかに震えるのを感じた。一瞬が、なぜだか
とても長く感じられた。
 これは、神様が与えてくれた、最後のチャンスだ。
「あの、私……っ」



 しおりに書かれてあった英文の意味を、彼から教えてもらうのは、もう少し後のお話。



次へ