終章

走る。
手や顔をこする草木を物ともせずに、ユナンは森を疾走していた。
傷を負ったはずの体は今や軽く、寧ろ力が有り余るように思える。
向かう先は言うまでもなく、一本木の丘。
そして、いつもより随分短い時間でその場所までたどり着く。
丘にそよぐ風。
遠目に見ると、いつもと同じ何気ない風景だった。
あの男は、ここにアリアがいると言っていたが、どういう事だろう。
ユナンは更に歩みを進め……

そして、呼吸が止まる。

そこには、アリアがいた。
アリアがいたが……

その小さな体は大木に縛り付けられ、
杭を打ち付けられた手の平からは未だ止め処なく赤いものが流れ、
そして――胸の辺り……その心臓部分には更に太い杭が打ち付けられていた。
一瞬ユナンの頭は事態を理解しない。いや、理解する事を拒否している。
思うように体が動かない。やっとの思いで、一歩、前へ出る。
「アリア……」
擦れた声で、やっと名を呼べる。
しかし名前を呼ばれたアリアは……ぴくりとも動かなかった。
「アリア……アリアっ!」
言って弾かれたようにユナンは走り出し、アリアのもとへ駆け寄る。
「アリア!」
側でもう一度名前を呼ぶが、返事はない。
それでもユナンは、アリアの手に打ち付けられた杭を力いっぱい引き抜き、
胸の杭も何とか取り除いた。
アリアを縛る縄は引き千切り、解き放たれたアリアをそっと抱き止め地面に下ろす。
「アリア……」
頬をさすり、声をかける。ふと、触った頬が温かかった。
そして微か、本当に微かだが、アリアが息をしている。
その事に気がついたユナンは、そっとアリアを抱き上げた。
その時だった。
「いたぞ!あそこだ!」
「くそっまた逃げるぞ!」
口々に叫びながら、幾人かの村人がやってきた。
「近寄るな!!」
ユナンは声を張り上げた。
まだ距離はあるが、小走りに近づいてくる群衆にそう警告した。
その迫力に、村人達の足があっさり止まる。押し黙る群衆。
ユナンの只ならぬ気配に、尻込みしているのだ。
「……おい……ベンのやつはどうした……?」
ベン?
「見回りに行ってくるって言ったまんま、戻ってこねえが……」
ああ、あの男か……
ユナンは尚も冷たく鋭い瞳を村人に送っている。その両の眼は、赤く光り輝いていた。
「まっまさかユナンお前……!」
その眼を見た村人の一人が、声を上げる。
瞬間どよめく群衆。
「もう一度言う。近寄るな」
ユナンは低く、しかししっかりとした声で再びそう言うと、
アリアを抱えてきびすを返した。その後姿を眺めるだけの村人達。
ふと、その中の一人がユナンの方へ飛び出そうとするのを、別の男が静止した。
「やめておけ。あいつは、もう……」

雨がしとしとと、地面に降り注ぎ始めた。

アリアを抱えて、ユナンはひたすら西へと向かっていた。
探しているのは――父の言っていた無人の教会。
そこを父が教えてくれたからには、きっと安全な場所なんだと思った。
と言うか、他に行き場所を見つける事は難しかった。
森の中を行き、川で水分補給をしながら西へと向かう。
不思議と空腹は感じなかった。
しかしその代わり、あの熱く甘い液体が恋しくて仕方がなかった。
アリアが言ったように、試しに樹液をすすってみるが、一口してむせてやめた。
アリアは依然温かく、息もしていた。
どのくらい歩いただろう?
あれから何日経ったのだろう?
日が分からなくなり、距離感も分からなくなった頃、ふと横から声がかかった。
「どうされましたか?」
ユナンは驚き、声がした方を振り向く。
そこには、一人の初老の男が立っていた。
神父か何かだろうか、田舎によくある簡単な法衣をまとっている。
こんな森の中に人・・・?
ユナンは警戒の眼差しを向けた。
その視線に男は臆せず、ふっと笑った。
その笑顔が、何となく憎めず、ユナンは口を開いた。
「教会を、探してるんです」
そう小さく、ぼそぼそと言う。
「教会……といったらこの森の中では、私の教会くらいですよ」
そういって微笑む。

案内されたその場所は、確かに教会だった。
石造りの立派な教会。まとわりついているツタが年月を物語っていた。
ここが父が言っていた教会だろうか?
しかし無人のはずでは……
ユナンが素直に神父について来たのは、やはり体を休めたいがためだった。
アリアの事もある。
そのアリアだが、見た目にはもう傷は殆ど治っていた。ユナンの傷も同じである。
しかし依然アリアは目を閉じたまま、ピクリとも動かない。
奥の部屋のベッドを使わせてもらって、そこにアリアを横たえた。
「どうぞ」
神父がそう言って差し出してくれたのは、お白湯だった。
「お茶を出せなくてすみません。今切らしてまして」
言って苦笑する神父。
ユナンはそれを静かに見つめる。そんなユナンの様子に、困ったように神父が言った。
「そんなに警戒しないで下さい。何があったかは聞きませんが、ここは安全です」
ユナンは思わず視線を伏せる。
あれだけの事があったのだ。そう簡単に人を信じられるわけがなかった。
「では、私はお茶を買出しに行ってきます」
その言葉にユナンはビクリとする。
「町に、行くんですか?」
気付いた時にはその言葉が口を突いて出ていた。
「ええ、歩いて三日ほどの所に小さい町があるので、そこへ」
――町へ行かれると、ここへ来た事がばれるかもしれない――
「では行ってきます。食べ物は給仕場にありますから」
そう言って部屋を去ろうとする神父の後姿をユナンは見つめていた。
――ごめん、アリア……
そしてユナンは、神父の腕をつかんだ。

名も知れぬ人里離れた森の奥、人の住まぬ地に残された石造りの教会。
くすんだ金色の、床までつくほど長い髪の青年が、ぞろびくローブをまとい立っている。
教会の建物にまとわりつくツタは、よりいっそう深く多く、
全てを覆いつくす程に茂っていた。
そのツタと床まで伸びた髪だけが、年月の流れを刻んでいる。
目の前の棺には、花に囲まれ眠るように眼を閉じて動かない一人の少女。
その衣装は純白のものに変えられ、まるで花嫁のようだった。
歳月の流れに反して、その髪はなお若草色に輝き、決して色あせる事はない。
青年は棺に手をかけ語りかけた。
「……アリア、今日も眼を開けてくれないのか……」
棺の中の少女を、悲しそうな、けれど愛おしそうな顔で青年は見つめる。
そっと触れた頬は依然温かい。
いつ目覚めるのか、本当に目覚めるのか分からない。
それでも青年は待っていた。
血塗られた愛しい少女が目覚める時を。


――END